うすのろ、当たり前に立ち返るの巻

川のほとりで、夏の真夜中に、星をながめていたことがあった。流れ星は降っては来てくれなくて、なんとなく、逆立ちをしてみたりしていた。なんでもない夏の夜だった。だけど今はわかる。星空が美しいってことや、川の音が優しいというその前に、流れ星をひたすら待ち焦がれながら、夜空の下で待ち続けるってことが、なんだか、どうしょうもなく、愛おしい。

ふとそんなことを思ったのは、東京に流れるその川が、また別のとある町も流れているということを知ったからだ。どこにでもあるような川なんだけど、何の変哲もなくって、大きいわけでもないんだけど、いまや私の中でとても大事な川になっている。

 

卒論が終わった。途中から楽しくなってしまって、もっとああしたかった、こうしたかった、っていう考えが浮かんでは消え、消えては浮かんでいた。それは、テスト前に部屋を片付けてしまうあの現象や、テスト後になぜか、勉強したくなってしまう遅れてきた成長期みたいなやつなんだろうか。

「ベトナム戦争から見えるラオス」ってなタイトルで書いていた。ラオスはベトナム戦争のときに実際に戦場で、米軍から200万トンもの爆撃を受けていた。ホーチミンルートも、9割がたラオスを通っていたし、まだ、田舎の方では爆撃の痕跡が家々の屋根に残っていることもある。でも、なんだかそれって全然知られていないじゃないか。モン族はCIAの作戦で、アメリカ側に付いて戦っていたりした人が数多くいて、戦後に難民になってしまった。映画の「グラン・トリノ」で出てくる、モン族の家族は、ベトナム戦争がきっかけでアメリカであんな暮らしをしていた。だけど、やっぱり、そんなことも、あんまり知られないじゃない。。4年間で、すっかり育ってしまったわたしのラオスへの愛が、そこに焦点を当てよ、と申していたので、描かれないラオスを見つめていたのでした。

たとえば、一言で「難民」って言ってしまえば伝わりやすく、わかりやすいんだろう。だけどそうやって、一言で簡単にしてしまったり、単純にしてしまおうとしたり、一般化してしまうことで、そぎ落とされた存在達は、もうストーリーから抹殺されてしまう。
ひとたび人々の中で、共通のストーリーが出来上がってしまうと、もう、そこに削られたものが登場する隙間は無くなってしまう。
描かれていないものを描くことや、描かれていないことがあるはずだって、思いながらいろんなことを見ていきたいな、と。そんなことを思うわけです。

戦争はそのことをいとも簡単に忘れさせてしまうから、こわいなと思う。何人死んでも数字が増えていくだけで、そこに一人一人の人生やその大事な人の人生の存在がある、という重い事実がすっかりヘチマみたいに、カラッカラのスッカスカになるんだもんな。

 


 

何の変哲もない川でも、この川とあの川が違うのは、わたし心の中にストーリーが描かれているからで、きっと誰もに、それはあるはず。言ってしまえば当たり前だけど、そんな当たり前に立ち返ることがむつかしくなるほどに、早足JAPANだから、改めて書いてみたりして。早足JAPAN。なんか好きだ、この響き。笑

 たまにはうすのろJAPANにしたいのだ。のろのろのろのろ。

 


のろ。